【京都・奈良&和ふう】 2006.04.06 (Thu)
その時“苔寺”が動いた~逆転の西芳寺
京都には、貴重な文化遺産を守るため、入場や観覧を制限しているものが少なくありません。
その中でも、特に心をひきつけられる まだ見ぬ名刹があります。
西芳寺。
またの名を“苔寺”といいます。
京都の西、かの嵐山の南方に、山にうずもれるようにたたずむ古寺です。
(グーグル<ローカル>の衛星写真マップで見ると一目瞭然)
その通称どおり、庭一面をおおうコケが見事。都会の喧騒とは無縁な、幽玄と静寂の世界が広がっています。
作ったのは(伝承では)室町初期の名僧にして、歴史的な作庭家とされる夢窓疎石(むそうそせき)。
ただし当時は、輝く白砂が一面に敷き詰められ、コケなど生えていませんでした。
それどころか、豪放な石組みの枯山水庭園と、池と御殿を中心にした回遊庭園の2段がまえは、
さしずめ豪華で雅やかな室町テーマパーク。
天皇家や足利将軍家らセレブリティに愛され、かの金閣&銀閣は、当時の西芳寺をまねて造られたのだとか。
苔むした現在の侘しさ寂しさからは、とても想像がつきません。
実は、この“わびさび”の境地に至るまでには、壮絶なお寺ドラマが秘められていました。
というのも、もともと湧き水が豊かな土地柄が災いして、約50年ごとに洪水と山崩れで崩壊してしまうのです。
さらに1467年、京都を火の海で包んだ“応仁の乱”で、立派な御殿も庭木もほぼ焼失。
あぁ、人世むなしい西芳寺さん…。
それでも、金閣寺の足利義満、銀閣寺の義政、そして織田信長と、
事あるたびに時の権力者が手を差し伸べてくれました(まだまだ愛されてるッ)。
しかし、江戸時代に入ると状況は一変。
宗教界は徳川幕府の厳しい管理下に置かれ、この寺の影響力もガタ落ちに。
気まずい雰囲気の中、ここでも2度の洪水に襲われてしまいます…。
造っては焼かれ、直しては流され…
その間、本来のデザインはほとんど失われてしまいました。
かくして、次第に人々の心から忘れ去られていく西芳寺さん。
江戸後期には寺は困窮を極め、庭木を木炭にして生活の足しにしたとか。
そんな不幸のどん底に落ちた西芳寺さんを、痛恨の一撃が襲います。
時は明治維新、新政府は天皇中心の政治システムを建設するため、
仏教を弾圧する“廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)”政策を掲げたのです。
ただでさえ落ちぶれ果てた貧乏寺、これには参った。もうお手上げ。万事休す。
もはや捨てるも同然にされてしまいました。
ところが…!
その前に、コマーシャル!!
ところが…!
荒れるに任せるうち、庭は一面の見事なコケに覆われたというではありませんか。
木炭用に丸裸にされたはずの庭木も、新しく現れたのは、すべて勝手に自生したもの。
もともと湧き水が豊かで、幾多の洪水に見舞われた、水には縁深い地。
コケを育む条件はどこよりも満たしていました。
いま我々が映像・写真等で目にする神秘的な景観は、本当に時間と自然のたまものだったのです。
…皮肉なものです。
このブログも、ほったらかしにしたら塩梅な趣が出てくるでしょうか…。
しかし、運命の皮肉には続きがありました。
戦後、このコケ庭が広く知られるようになると観光客が殺到、
無神経に踏み潰すわ、コケをはがし取るわ、ゴミは捨てるわの狼藉ざんまい。観光バスの排ガスで、植生も大ピンチに。
そこで1977年、寺は1日2、30人程度の完全予約制をしいて、一般の入場を大幅に制限したのです。
現在では、ただ庭を見るだけでなく、写経をしたりお説教を聞いたりしなければなりません。
信者ではないぼくにすれば、かえって魂の抜けた一日になるでしょう。
だから憧れに任せて行く気にはなれないのです。
最後に、運命の皮肉ついでをもうひとつ。そこまでしての保護が実ったのか、
1994年、京都の名だたる寺社・城と共に、ユネスコの“世界遺産”に登録されました。
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