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    【 『方丈記』 全訳】 2021.08.22 (Sun)

    『方丈記』全訳⑨/我が身の遍歴

    ≪9.我が身、父の方の祖母の家をつたへて~鴨長明 『方丈記』 原文と現代語訳≫

    『方丈記』2

     我が身、父の方の祖母の家をつたへて、久しく彼所に住む。そののち縁かけ、身おとろへて、しのぶかたがたしげかりしかば、つひにあととむることを得ずして、三十餘にして、更に我が心と一の庵をむすぶ。
     これをありしすまひになずらふるに、十分が一なり。たゞ居屋ばかりをかまへて、はかばかしくは屋を造るにおよばず。わづかについひぢをつけりといへども、門たつるたづきなし。竹を柱として、車やどりとせり。雪ふり風吹くごとに、危ふからずしもあらず。所は河原近ければ、水の難も深く、白波(=盗賊)のおそれもさわがし。


     私は父方の祖母の家を受け継いで、久しくその場所(下鴨神社)に住んでいた。そののち縁が切れ、身は落ちぶれて、しのぶ思い出はたくさんあったがついに留まることが出来なくなって、三十歳あまりの時にわが心にぴったりの草庵を(東山に)むすんだ。
     これは在りし日の住まいと比べたら十分の一の大きさで、ただ居室を構えただけで、でかでかと屋敷を造ることはできなかった。わずかに土塀を付けたけれども、門を建てる手段はなかった*。竹を柱として車庫とした。雪が降り風が吹くごとに危うくならないわけではない。所は河原が近いので水の難も深刻で、盗賊のおそれも騒がしい。(*当時の身分では三、四位以上でないと門は建てられなかったこともある。)



     すべてあらぬ世を念じ過ぐしつゝ、心をなやませることは、三十餘年なり。その間をりをりのたがひめに、おのづから短き運をさとりぬ。すなはち五十の春をむかへて、家をいで世をそむけり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官祿あらず、何につけてか執をとゞめむ。むなしく大原山の雲にふして、またいくそばく*の春秋をかへぬる。(*「五(いつ)かへり」=五年とする版もある。)


     まったく、(成人して)生きにくい世の中を我慢して過ごし、心を悩ませてきて三十余年になる。その間、折々の失敗のたびに、自分の運のなさを悟った。そこで五十の春を迎えた時に、出家して俗世を離れた。もとより妻子がいないので、捨てがたいような身寄りもない。身には官位や俸禄はないので、何に執着することがあろう。むなしく大原の山に隠れ住んで、幾(いく)ばくかの歳月が流れた。
     

    【続き・・・】

     

      ≪鴨長明の略歴≫
     ◆1155年、下鴨神社の禰宜(ねぎ。社の次官)・鴨長継の次男として京都に生まれる(源頼朝・義経兄弟のあいだ世代)「父の方の祖母」 は二条天皇后に仕えた人で力があり、長明は前途洋々に育つ。7歳で貴族階級の「従五位下」に叙位。なお兄・長守についてはほぼ無名に終わる。
     ◆1156年、保元の乱。1159年、平治の乱。 平清盛ら武家が台頭。

     ◆1172年(数え18歳)、父が急死。その後継争いに敗れ、出世街道から脱落。以後は神官職はそこそこに、歌人や琵琶の弾き手として活動。
     (「わが子を思い出す、重ね合わせる」といった内容の和歌が複数残されていることから、十代で結婚して子供をもうけていたのでは、と言われている。)
     ◆1177年、安元の大火。1180年、治承の辻風福原遷都
     ◆1180年(26歳)、源氏が挙兵。“源平合戦”の始まり。

     ◆1181年、歌集 『鴨長明集』
     ◆1181~82年、養和の飢饉(1)(2)

     ◆30歳前後、実家を出て鴨川のそば(東山)に転居。「三十餘にして、更に我が心と一の庵をむすぶ。」
     ◆1185年旧三月(31歳)、壇ノ浦の戦いで平家滅亡。1192年、源頼朝が征夷大将軍就任。
     ◆1185年旧七月、元暦の地震
     ◆このころ、伊勢旅行。紀行文 『伊勢記』 を著すも現存せず。断片のみ。

     ◆青・壮年期は、在野の歌人として各和歌集にいくつか入選。1200年、後鳥羽上皇の歌会 「正治後度百首」 を機に表舞台に。
     ◆1201年(47歳)、『新古今和歌集』 を編さんする 「和歌所 寄人」 に抜擢。(1205年完成。自作は10首が入選。)
     ◆下鴨神社系列(河合神社)の就職に失敗。50歳の春(1204年ごろ)、突然に出家。洛北の大原に隠遁。「すなはち五十の春をむかへて、家をいで世をそむけり。」

     ◆60歳を前に(1208年ごろ)、京都伏見の日野山に「方丈」の庵をあみ、終の住みかとする。「こゝに六十の露消えがたに及びて、さらに末葉のやどりを結べることあり。」 「大かた此所に住みそめし時は、あからさまとおもひしかど、今すでに五とせを經たり。」

     ◆1211年旧十月、鎌倉幕府第3代将軍・源実朝の和歌の師に推薦され、鎌倉に行くも果たせず。
     ◆1212年旧三月末(58歳)、『方丈記』 が完成。(「時に建暦の二とせ、彌生の晦日比…これをしるす。」――原稿用紙20枚程度なので、執筆は鎌倉帰り以降の短期間か?)
     ◆歌論書の 『無名抄』(~1211年)、仏教説話 『発心集』(1214年ごろ)を執筆。(円熟・達観の度合いから、それぞれ『方丈記』の前と後かと位置づけられている。)
     ◆1216年閏六月十日、死去。数え62歳。


     
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