【どうわ】 2017.06.27 (Tue)

吾輩は赤ちゃんで ある(第7話)

夏目漱石イラスト

 その後吾輩は、たびたび車屋の黒と邂逅(かいこう=めぐりあう)する。邂逅するごとに彼は気焔(きえん)を吐く。先に吾輩が耳にしたという不徳事件も、実は黒から聞いたのである。
 或る日、例のごとく吾輩と黒は、暖かい保育ルームで寝転びながらいろいろ雑談をしていると、彼はいつもの自慢話をさも新しそうに繰り返したあとで、吾輩に向って下のごとく質問した。
 「おめえは今までに、離乳食を何杯食った事がある?」

 智識は黒よりもよほど発達しているつもりだが、腕力と勇気とに至っては到底黒の比較にはならないと覚悟はしていたものの、この問いに接したる時は、さすがに極(きま)りが善くはなかった。けれども事実は事実で詐(いつわ)る訳には行かないから、吾輩は
 「実は食おう食おうと思ってまだ食わない」
 と答えた。黒は彼の鼻の先からぴんと突張っている長い唇をびりびりと震わせて、非常に笑った。

 元来、黒は自慢をするだけにどこか足りないところがあって、彼の気焔を感心したように咽喉(のど)をころころ鳴らして謹聴していれば、はなはだ御しやすい赤ちゃんである。吾輩は彼と近付きになってから直(じか)にこの呼吸を飲み込んだから、この場合にもなまじ己(おのれ)を弁護してますます形勢をわるくするのも愚である。いっその事、彼に自分の手柄話をしゃべらして、お茶を濁すに若(し)くはないと思案を定めた。そこでおとなしく
 「君などは年が年であるから、だいぶ食ったろう」
 とそそのかして見た。果然、彼は墻壁(しょうへき)の欠所(けっしょ)に吶喊(とっかん)して来た。(「果たして、防壁の弱点に突貫してきた」。ここぞとばかり乗ってくるさま)

 「たんとでもねえが、三四十は食ったんじゃね?」
 とは得意気なる彼の答えであった。彼はなお語をつづけて
 「白米の百や二百はひとりでいつでも引き受けるが、納豆ってえやつは手に合わねえ。一度納豆に向ってひどい目に逢った」
 「ふん」 感心して見せる。
 「離乳食ってけども何、大人の食い物を薄めて潰したぐれえのものだ。こん畜生って気でがっついて、とうとう泥みてえな粥を食い尽くしたと思いねえ」
 「うまくやったね」 と喝采してやる。
 「ところがおめえ、納豆ってえ段になると奴め、最後っ屁をこきゃがった。臭えの臭くねえのって、それからってえものは納豆を見ると胸が悪くならあ」
 彼はここに至って、あたかも去年の臭気を今なお感ずるごとく両手を揚げて、鼻の頭を二三べんなで廻わした。吾輩も少々気の毒な感じがする。ちっと景気を付けてやろうと思って
 「しかし君なら保育園に入れば人気者だろう。君は親御さんが料理の名人でご馳走ばかり食うものだから、そんなに肥って色つやが善いのだろう」

 黒の御機嫌をとるためのこの質問は、不思議にも反対の結果を呈出(ていしゅつ)した。彼は喟然(きぜん=嘆く)として大息していう――
 「考げえるとマジむかつく。いってえ役人ほどふてえ奴は世の中にいねえぜ。いくら親が稼いで育児休暇をとったって、0歳のうちから公立保育園に登録しないと定員が埋まって入れねえと言うじゃねえか。それじゃ育休取った意味がねえってもんだ。
 うちの知事なんか税金でファーストクラスだかスイートルームだか取ってる癖に、碌(ろく)に保育園をつくった事もありゃしねえ。おい役人てものァ、体のよい泥棒だぜ」

 さすが無学の黒もこのくらいの理屈はわかると見えて、すこぶる怒ったようすで頭の毛を逆立てている。吾輩は少々気味が悪くなったから、いい加減にその場を胡魔化(ごまか)して家へ帰った。
 この時から吾輩は決して離乳食は食うまいと決心した。黒の子分になって保育園を回ってあるく事もしなかった。保育園に落ちて日本が死のうが寝ていた方が気楽でいい。無愛想の家にいると息子も親のような性質になると見える。要心しないと今に胃弱になるかも知れない。

 つづく

 
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