【どうわ】 2017.05.22 (Mon)

吾輩は赤ちゃんである (第6話)

夏目漱石イラスト

 わがままもこのくらいなら我慢するが、吾輩は大人の不徳についてこれよりも数倍悲しむべき報道を耳にしたことがある。
 吾輩の家の裏に百坪ばかりの保育ルームがある。広くはないが瀟洒(しょうしゃ=さっぱり)とした心持ちよく日の当る所だ。うちの兄姉に熱が出て楽々昼寝の出来ない時や、あまり退屈で腹加減のよくない折などは、吾輩はいつでもここへ出て浩然(こうぜん)の気を養うのが例である。

 ある小春の穏かな日の二時頃であったが、この園に歩を運ばせると、ぬいぐるみを押し倒してその上に大きな赤ちゃんが前後不覚に寝ている。彼は吾輩の近づくのもいっこう心付かざるごとく、また心付くも無頓着なるごとく、大きな鼾(いびき)をして長々と体を横たえて眠っている。他人が庭内に忍び入りたるに、かくまで平気に睡られるものかと、吾輩は窃(ひそ)かにその大胆なる度胸に驚かざるを得なかった。彼は赤ちゃん中の大王とも云うべきほどの偉大なる体格を有している。

 大王はかっとその真ン丸の眼を開いた。今でも記憶している。その眼は、大人の珍重する琥珀というものよりも遥かに美しく輝いていた。彼は身動きもしない。双眸(そうぼう=二つの目)の奥から射るごとき光を、吾輩の矮小(わいしょう)なる額の上にあつめて
 「おめえは一体何だ」
 と云った。大王にしては少々言葉が卑しいと思ったが、何しろその声の底に犬をも挫(ひ)しぐべき力が籠っているので、吾輩は少なからず恐れを抱いた。しかし挨拶をしないと険呑(けんのん=あぶない)だと思ったから
 「吾輩は赤ちゃんである。名前はまだない」
 となるべく平気を装って冷然と答えた。しかしこの時、吾輩の心臓はたしかに平時よりも烈(はげ)しく鼓動しておった。彼は大いに軽蔑せる調子で
 「何、赤ちゃんだ? 名前がないってウケるんですけど。マジ親?」
 ずいぶん傍若無人である。言葉付きから察すると、どうも良家の赤ちゃんとも思われない。しかしその膏(あぶら)ぎって肥満しているところを見ると、ご馳走を食ってるらしい、豊かに暮しているらしい。吾輩は 「そう云う君は一体誰だい」 と聞かざるを得なかった。
 「おれぁ車屋の黒よ」

 つづく

 
関連記事
23:16  |  どうわ  |  コメント(0)  |  EDIT  |  上へ↑

*Comment

コメントを投稿する (ログイン不要)

URL  未記入でもOK
コメント
パスワード  編集・削除用。適当な文字を。
内緒  管理人だけに表示
 

▲PageTop