【どうわ】 2017.01.15 (Sun)

吾輩は赤ちゃんである (第1話)

夏目漱石イラスト

 吾輩は赤ちゃんである。名前はまだ無い。
 どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でオギャーと泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは小学生という人間中でいちばん獰悪(どうあく)な種族であったそうだ。この小学生というのは時々我々を捕えて煮て食うという話である。しかしその当時はなんという考えもなかったから別段おそろしいとも思わなかった。

 ただ彼の掌(てのひら)に載せられてスーと持ち上げられた時、何だかフワフワした感じがあったばかりである。掌の上で少し落ちついて小学生の顔を見たのがいわゆる人間というものの見始めであろう。この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。
 第一つるつるすべきはずの顔が毛をもって装飾されまるで束子(たわし)だ。その後赤ちゃんにもだいぶ逢ったがこんな片輪には一度も出会わした事がない。のみならず口の中があまりに突起している。そうしてその突起物には時々ねちょねちょと泥が付いている。どうも甘たるくて実に弱った。これが小学生の兄の歯に付いたキャラメルというものである事はようやくこの頃知った。

 この小学生の掌の裏でしばらくはよい心持ちに坐っておったが、しばらくすると非常な速力で運転し始めた。小学生が動くのか自分だけが動くのか分らないがむやみに眼が廻る。胸が悪くなる。到底助からないと思っていると、どさりと音がして眼から火が出た。それまでは記憶しているがあとは何の事やらいくら考え出そうとしても分らない。
 ふと気が付いて見ると小学生はいない。たくさんおった新生児室の兄弟が一ぴきも見えぬ。肝心の母親さえ姿を隠してしまった。その上今までの所とは違ってむやみに明るい。眼をあいていられぬくらいだ。はてな何でもようすがおかしいと、のそのそ布団から這い出して見ると非常に痛い。
 吾輩は産院から急に笹原の自宅へ帰ったのである。

 つづく


 
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【どうわ】 2017.01.25 (Wed)

吾輩は赤ちゃんである (第2話)

夏目漱石イラスト
 

 (ハイライト) ようやくの思いで布団を這(は)い出すと向うに大きなおっぱいがある。吾輩は母の前に抱かれてどうしたらよかろうと考えて見た。別にこれという分別(=ちえ)も出ない。
 縁は不思議なもので、もしこのお乳がなかったなら、吾輩はついに路傍(ろぼう)に餓死したかも知れんのである・・・。



 さて自宅邸へは忍び込んだもののこれから先どうしてよいか分らない。そのうちに暗くなる、腹は減る、おむつの中は雨が降って来るという始末でもう一刻の猶予が出来なくなった。仕方がないからとにかく明るくて暖かそうな方へ方へとずって行く。
 今から考えるとその時はすでに敵の手の内に入っておったのだ。ここで吾輩はかの小学生の兄以外のきょうだいを再び見るべき機会に遭遇したのである。

 第一に逢ったのが幼稚園児の姉である。これは前の小学生の兄よりいっそう乱暴な方で、吾輩を見るや否やいきなり頸筋(くびすじ)をつかんで抱きついてきた。いやこれは駄目だと思ったから眼をねぶって運を天に任せていた。しかし苦しいのと暑いのにはどうしても我慢が出来ん。吾輩は再び姉の隙を見て布団を這(は)い上った。すると間もなくまた抱きつかれた。吾輩は抱きつかれては這い上り、這い上っては抱きつかれ、何でも同じ事を四五へん繰り返したのを記憶している。その時に姉という者はつくづくいやになった。このあいだ姉のアリエルのフィギュアをぬすんでこの返報(=しかえし)をしてやってから、やっと胸のつかえが下りた。

 吾輩が最後に抱きつかれたときに、この家の父が騒々しい何だといいながら出て来た。姉は吾輩をぶら下げて父の方へ向けて、この赤ちゃんの弟がいくらチュッチュしてもチュッチュしても可愛いという。父は鼻の下の黒い毛をひねりながら吾輩の顔をしばらく眺めておったが、やがて寝床に置いてやれといったまま奥へ入ってしまった。父はあまり口を聞かぬ人と見えた。姉は口惜しそうに吾輩をお昼寝布団へほうり出した。
 かくして吾輩は、ついにこの家を自分の住家ときめる事にしたのである。

 つづく


 
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【どうわ】 2017.02.09 (Thu)

吾輩は赤ちゃんである (第3話)

夏目漱石生誕150年記念日――
夏目漱石イラスト
 

 (ハイライト) 吾輩がこの家へ住み込んだ当時は、母以外のものにははなはだ不人望であった。どこへ行っても3人目は跳ねつけられて相手にしてくれ手がなかった。いかに珍重されなかったかは、今日に至るまで姉の名前がついたお下がりを着ているのでも分る――。



 吾輩は大人と同居して彼等を観察すればするほど、彼等は我儘(わがまま)なものだと断言せざるを得ないようになった。
 ことに吾輩が時々同衾(どうきん=一緒に寝る)する兄姉のごときに至っては言語同断である。自分の勝手な時は人を逆さにしたり、頭へ紙おむつをかぶせたり、顔にシールを貼ったり、洗濯かごの中へ押し込んだりする。しかも吾輩の方で少しでも手出しをしようものなら、きょうだい総がかりでいじくり廻して迫害を加える。
 この間もちょっとプラレールで作ったお寿司定食を壊したら、姉が非常に怒ってそれから容易に座敷へ入れない。「ハローキティおままごとキッチン」の板の間で他人がふるえていてもいっこう平気なものである。

 吾輩の尊敬する筋向いのマンションの白くんなどは、逢うたびごとに大人ほど不人情なものはないと言っておらるる。
 玉のような白くんは先日生後4カ月を迎えたのである。ところがそこの家の親が裏の病院へ連れて行って、3本もの注射を打たせたそうだ。白くんは涙を流してその一部始終を話した上、どうしてもわれら赤ちゃんが親子の愛をまっとうして美しい家族的生活をするには、大人と戦ってこれを剿滅(そうめつ)せねばならぬと言われた。いちいちもっともの議論と思う。

 また隣りの保育園に通うみーちゃんなどは、兄姉ら上級生が所有権という事を解していないと言って大いに憤慨している。
 元来、1976年発効の 『子どもの権利条約』 第19条においては、「不当な取り扱いまたは搾取から子供を保護する」 旨が明記されておる。もし相手がこの規約を守らなければ司法に訴えてよいくらいのものだ。しかるに彼ら兄姉は毫(=わずか)もこの観念がないと見えて、我等が見つけたおもちゃは必ず彼等のために掠奪せらるるのである。彼等はその強力を頼んで、正当にわれらが食い得べきものを奪ってすましている。

 白くんは3世代大家族の家におり、みーちゃんは共働きの親を持っている。吾輩は自営業の家に住んでいるだけ、こんな事に関すると両君よりもむしろ楽天である。ただその日その日がどうにかこうにか送られればよい。
 いくら兄姉だって、そういつまでも栄える事もあるまい。まあ気を永く末っ子の時節を待つがよかろう。

 つづく

 
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【どうわ】 2017.03.03 (Fri)

吾輩は赤ちゃんである (第4話)

夏目漱石イラスト

 わがままで思い出したから、ちょっと吾輩の父がこのわがままで失敗した話をしよう。
 元来この父は何といって人に勝(すぐ)れて出来る事もないが、何にでもよく手を出したがる。ブログをやってFC2へ投稿したり、名作文学をパクったり、間違いだらけのアカデミー賞映画批評を書いたり、時によるとNBAに凝ったり、ジャズを習ったり、またあるときはヴァイオリン曲などをブーブー論じたりするが、気の毒な事にはどれもこれも物になっておらん。その癖やり出すと胃弱のくせにいやに熱心だ。
 後架(=便所)の中でラップをうたって、近所で便所先生とあだ名をつけられているにも関せずいっこう平気なもので、ペパポだYo!を繰り返している。みんながそらMCバカーだと吹き出すくらいである。

 この父がどういう考えになったものか、吾輩が生まれてから一月ばかり後のある月の月給日に、大きな包みを提げてあわただしく帰って来た。何を買って来たのかと思うと一眼レフカメラとハイビジョン・ビデオカメラで、今日からブログやツィッターをやめてインスタグラムを始める決心と見えた。果たして翌日から当分の間というものは、毎日毎日書斎で昼寝もしないで写真ばかり撮っている。しかしその撮り上げたものを見ると、何を撮ったものやら誰にも鑑定がつかない。

 当人もあまり甘くないと思ったものか、ある日その友人で美術とかをやっている人が来た時に下のような話をしているのを聞いた。
 「どうも甘く撮れないものだね。人のを見ると何でもないようだが、自らカメラをとってみると今更のようにむずかしく感ずる」
 これは父の述懐である。なるほど詐(いつわ)りのないところだ。彼の友は金ぶちの眼鏡越しに父の顔を見ながら、
 「そう初めから上手には撮れないさ。第一、室内の想像ばかりで写真が撮れる訳のものではない。昔イタリーの大家アレッサンドロ・デル・ピエロが言った事がある。絵をかくなら何でも自然その物を写せ。――天に星辰あり。地に露華あり。飛ぶに禽あり。走るに獣あり。池に金魚あり。枯木に寒鴉あり。自然はこれ一幅の大活画なり――と。どうだ君も写真らしい写真を撮ろうと思うなら、ちと写生をしたら」
 「へえアレッサンドロ・デル・ピエロがそんな事をいった事があるかい。ちっとも知らなかった。なるほどこりゃもっともだ。実にその通りだ」
 と父はむやみに感心している。金ぶちの裏には嘲(あざ)けるような笑いが見えた。

 つづく

 
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【どうわ】 2017.04.13 (Thu)

吾輩は赤ちゃんである (第5話)

夏目漱石イラスト

 ・・・その翌日、吾輩は例のごとく縁側に出て心持ちよく昼寝をしていたら、父が例になく書斎から出て来て吾輩の後ろで何かしきりにやっている。ふと眼が覚めて何をしているかと一分ばかり細目に眼をあけて見ると、彼は余念もなくアレッサンドロ・デル・ピエロをきめ込んでいる。吾輩はこの有様を見ておもわず失笑するのを禁じ得なかった。彼は彼の友に揶揄(やゆ)せられたる結果として、まず手初めに吾輩を一眼レフカメラで撮影しつつあるのである。
 吾輩はすでに十分寝た。欠伸(あくび)がしたくてたまらない。しかしせっかく父が熱心にレンズを向けているのを動いては気の毒だと思って、じっと辛抱しておった。彼は今、吾輩の輪廓にピントを合わせ、顔のあたりを撮っている。

 吾輩は自白する。吾輩は赤ちゃんとして決して上々の出来ではない。背といい毛並といい顔の造作といい、あえて他の赤ちゃんに勝るとは決して思っておらん。しかしいくら不器量の吾輩でも、今吾輩の父に写されつつあるような妙な姿とは、どうしても思われない。
 第一、顔が違う。吾輩は博多人形のごとく朱を含める乳白色に、桃のごとき柔らかいほっぺを有しておる。これだけは誰が見ても疑うべからざる事実と思う。しかるに今父の写真を見ると、髭とあばたのおじさんというよりほかに評し方のない顔をしておる。これは父の顔である。驚くべきことに一緒に並んで写った父と吾輩の顔が、まるまる切り取られて交換されておるではないか。
 その上不思議な事は眼がやたら大きい。顔の半分を占めるほどの、昭和四十年代の少女漫画もかくやとばかりの大きさだ。

 父は自分に写真の才がないことに飽きて、変顔アプリを見つけてひとり喜悦に入りだしたのである――。


 しかしその熱心には感服せざるを得ない。なるべくなら動かずにおってやりたいと思ったが、さっきから小便が催している。身内の筋肉はむずむずする。もはや一分も猶予が出来ぬ仕儀となったから、やむをえず失敬して両足を前へ存分に伸ばして、ちんちんを低く押し出してあーあ と大なる小便をした。
 さてこうなって見ると、もうおとなしくしていても仕方がない。どうせ父の予定は打ち壊したのだから、父がおむつを開いたついでにもうひとひねり用を足した。

 すると小便を浴びた父は失望と怒りをかき交ぜたような声をして、股の間から「このばかちんが」と怒鳴った。この父は人を罵るときは必ずばかちんというのが癖である。ほかに悪口の言いようを知らないのだから仕方がないが、今まで辛抱した人の気も知らないで、むやみにばかちん呼ばわりは失敬だと思う。それも平生、吾輩が彼の膝へ乗る時に少しはよい顔でもするならこの漫罵(まんば=ののしり)も甘んじて受けるが、こっちの便利になる事は何ひとつ快(こころよ)くしてくれた事もないのに、顔に小便を引っ掛けたのをばかちんとはひどい。
 元来大人というものは、自己の力量に慢じてみんな増長している。少し大人より強いものが出て来て窘(たしな)めてやらなくては、この先どこまで増長するか分らない。

 つづく

 
20:10  |  どうわ  |  コメント(0)  |  EDIT  |  上へ↑

【どうわ】 2017.05.22 (Mon)

吾輩は赤ちゃんである (第6話)

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 わがままもこのくらいなら我慢するが、吾輩は大人の不徳についてこれよりも数倍悲しむべき報道を耳にしたことがある。
 吾輩の家の裏に百坪ばかりの保育ルームがある。広くはないが瀟洒(しょうしゃ=さっぱり)とした心持ちよく日の当る所だ。うちの兄姉に熱が出て楽々昼寝の出来ない時や、あまり退屈で腹加減のよくない折などは、吾輩はいつでもここへ出て浩然(こうぜん)の気を養うのが例である。

 ある小春の穏かな日の二時頃であったが、この園に歩を運ばせると、ぬいぐるみを押し倒してその上に大きな赤ちゃんが前後不覚に寝ている。彼は吾輩の近づくのもいっこう心付かざるごとく、また心付くも無頓着なるごとく、大きな鼾(いびき)をして長々と体を横たえて眠っている。他人が庭内に忍び入りたるに、かくまで平気に睡られるものかと、吾輩は窃(ひそ)かにその大胆なる度胸に驚かざるを得なかった。彼は赤ちゃん中の大王とも云うべきほどの偉大なる体格を有している。

 大王はかっとその真ン丸の眼を開いた。今でも記憶している。その眼は、大人の珍重する琥珀というものよりも遥かに美しく輝いていた。彼は身動きもしない。双眸(そうぼう=二つの目)の奥から射るごとき光を、吾輩の矮小(わいしょう)なる額の上にあつめて
 「おめえは一体何だ」
 と云った。大王にしては少々言葉が卑しいと思ったが、何しろその声の底に犬をも挫(ひ)しぐべき力が籠っているので、吾輩は少なからず恐れを抱いた。しかし挨拶をしないと険呑(けんのん=あぶない)だと思ったから
 「吾輩は赤ちゃんである。名前はまだない」
 となるべく平気を装って冷然と答えた。しかしこの時、吾輩の心臓はたしかに平時よりも烈(はげ)しく鼓動しておった。彼は大いに軽蔑せる調子で
 「何、赤ちゃんだ? 名前がないってウケるんですけど。マジ親?」
 ずいぶん傍若無人である。言葉付きから察すると、どうも良家の赤ちゃんとも思われない。しかしその膏(あぶら)ぎって肥満しているところを見ると、ご馳走を食ってるらしい、豊かに暮しているらしい。吾輩は 「そう云う君は一体誰だい」 と聞かざるを得なかった。
 「おれぁ車屋の黒よ」

 つづく

 
23:16  |  どうわ  |  コメント(0)  |  EDIT  |  上へ↑

【どうわ】 2017.06.27 (Tue)

吾輩は赤ちゃんで ある(第7話)

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 その後吾輩は、たびたび車屋の黒と邂逅(かいこう=めぐりあう)する。邂逅するごとに彼は気焔(きえん)を吐く。先に吾輩が耳にしたという不徳事件も、実は黒から聞いたのである。
 或る日、例のごとく吾輩と黒は、暖かい保育ルームで寝転びながらいろいろ雑談をしていると、彼はいつもの自慢話をさも新しそうに繰り返したあとで、吾輩に向って下のごとく質問した。
 「おめえは今までに、離乳食を何杯食った事がある?」

 智識は黒よりもよほど発達しているつもりだが、腕力と勇気とに至っては到底黒の比較にはならないと覚悟はしていたものの、この問いに接したる時は、さすがに極(きま)りが善くはなかった。けれども事実は事実で詐(いつわ)る訳には行かないから、吾輩は
 「実は食おう食おうと思ってまだ食わない」
 と答えた。黒は彼の鼻の先からぴんと突張っている長い唇をびりびりと震わせて、非常に笑った。

 元来、黒は自慢をするだけにどこか足りないところがあって、彼の気焔を感心したように咽喉(のど)をころころ鳴らして謹聴していれば、はなはだ御しやすい赤ちゃんである。吾輩は彼と近付きになってから直(じか)にこの呼吸を飲み込んだから、この場合にもなまじ己(おのれ)を弁護してますます形勢をわるくするのも愚である。いっその事、彼に自分の手柄話をしゃべらして、お茶を濁すに若(し)くはないと思案を定めた。そこでおとなしく
 「君などは年が年であるから、だいぶ食ったろう」
 とそそのかして見た。果然、彼は墻壁(しょうへき)の欠所(けっしょ)に吶喊(とっかん)して来た。(「果たして、防壁の弱点に突貫してきた」。ここぞとばかり乗ってくるさま)

 「たんとでもねえが、三四十は食ったんじゃね?」
 とは得意気なる彼の答えであった。彼はなお語をつづけて
 「白米の百や二百はひとりでいつでも引き受けるが、納豆ってえやつは手に合わねえ。一度納豆に向ってひどい目に逢った」
 「ふん」 感心して見せる。
 「離乳食ってけども何、大人の食い物を薄めて潰したぐれえのものだ。こん畜生って気でがっついて、とうとう泥みてえな粥を食い尽くしたと思いねえ」
 「うまくやったね」 と喝采してやる。
 「ところがおめえ、納豆ってえ段になると奴め、最後っ屁をこきゃがった。臭えの臭くねえのって、それからってえものは納豆を見ると胸が悪くならあ」
 彼はここに至って、あたかも去年の臭気を今なお感ずるごとく両手を揚げて、鼻の頭を二三べんなで廻わした。吾輩も少々気の毒な感じがする。ちっと景気を付けてやろうと思って
 「しかし君なら保育園に入れば人気者だろう。君は親御さんが料理の名人でご馳走ばかり食うものだから、そんなに肥って色つやが善いのだろう」

 黒の御機嫌をとるためのこの質問は、不思議にも反対の結果を呈出(ていしゅつ)した。彼は喟然(きぜん=嘆く)として大息していう――
 「考げえるとマジむかつく。いってえ役人ほどふてえ奴は世の中にいねえぜ。いくら親が稼いで育児休暇をとったって、0歳のうちから公立保育園に登録しないと定員が埋まって入れねえと言うじゃねえか。それじゃ育休取った意味がねえってもんだ。
 うちの知事なんか税金でファーストクラスだかスイートルームだか取ってる癖に、碌(ろく)に保育園をつくった事もありゃしねえ。おい役人てものァ、体のよい泥棒だぜ」

 さすが無学の黒もこのくらいの理屈はわかると見えて、すこぶる怒ったようすで頭の毛を逆立てている。吾輩は少々気味が悪くなったから、いい加減にその場を胡魔化(ごまか)して家へ帰った。
 この時から吾輩は決して離乳食は食うまいと決心した。黒の子分になって保育園を回ってあるく事もしなかった。保育園に落ちて日本が死のうが寝ていた方が気楽でいい。無愛想の家にいると息子も親のような性質になると見える。要心しないと今に胃弱になるかも知れない。

 つづく

 
20:33  |  どうわ  |  コメント(0)  |  EDIT  |  上へ↑